1. 「社内にAI活用の機会がない」— この相談が最も多い
キャリア相談の現場で、SIer・受託開発・ITコンサルの方から最も多く寄せられるのがこの言葉です。「世の中はAIの話ばかりなのに、自分の現場では触ることすらできない。このままで大丈夫なのか」。焦りの背景には、個人の努力では動かしにくい構造的な理由があります。
- 顧客のセキュリティ制約 — 金融・公共・製造など、顧客側のポリシーで生成AIの利用が禁止・制限されている。自社に意欲があっても、顧客環境が優先される
- 客先常駐という働き方 — 開発環境も使用ツールも常駐先の規程に従う。自分の判断で新しいツールを持ち込む余地がそもそもない
- レガシー案件の比重 — 稼働中システムの保守・改修が主戦場で、技術選定は何年も前に終わっている。AIどころかモダンな開発手法にも触れにくい
- 多重請負の構造 — 業務の進め方を決める権限が上位会社や顧客にあり、提案しても届かない
つまり「AIに触れていない」のは、あなたの怠慢ではありません。しかし同時に、構造のせいにして立ち止まれば、環境に恵まれた同世代との差は静かに開いていきます。本記事は、この構造を直視したうえで、SIerのエンジニア・PMが市場価値を上げるための現実的な道筋を3つ提示します。その前に、まずやるべきことがあります。自分の資産を正しく数えることです。
2. まず、SIer経験の資産を正しく数える
前提として、キャリア資産の整理には「3層モデル」を使います。第1層はAI活用力、第2層は業務を分解しAIと人の分担を設計し直す業務設計力、第3層は意思決定と責任、人を動かす力。そしてキャリア価値は、この3層の掛け算に、業界・業務の専門知識(ドメイン専門性)を掛けたものとして決まります。役職や社名ではなく、この掛け算の値が市場価値の実体です。
この物差しでSIerの経験を数え直すと、通説とはかなり違う景色が見えます。
- 顧客業務の理解 — 金融の勘定系、製造の生産管理、物流、公共。担当業界の業務フローを図に描けるレベルの理解は、まさにドメイン専門性そのもの。掛け算の片側を担う希少資産です
- 要件定義の経験 — 顧客の曖昧な要望を聞き出し、業務を分解し、仕様に落とす。これは第2層(業務設計力)の中核と同じ筋肉です
- 品質管理・テスト設計 — 出力の品質を疑い、検証の観点を設計し、リリース可否を判断する。AIの出力に責任を持つ側に回るとき、最も要求される能力です
- 顧客折衝・調整 — 利害の異なる関係者を合意に導く経験は、第3層(人を動かす力)の資産です
- PM経験 — 進捗・リスク・ベンダーの管理、トラブル時の判断。第3層の判断と責任を、実務で積んできた証拠です
「SIer出身は市場価値が低い」という通説を耳にすることがありますが、これは正確ではありません。低く評価されるのはSIer出身という属性ではなく、資産が翻訳されないまま提示された職務経歴です。「〇〇システムの開発に従事」というタスクの羅列では、上に挙げた資産は採用決裁者に一切伝わりません。逆に、ドメイン知識・要件定義・品質管理・折衝・PMという言葉で数え直せば、SIerの経験は第2層・第3層に厚い、掛け算の土台がすでにあるキャリアだと分かります。
3. 直視すべきこと — いまの環境で積みにくいもの
資産を正当に数えたうえで、目をそらしてはいけない事実もあります。いまのSIerの環境では、次の3つが構造的に積みにくいということです。
積みにくいもの1:AI前提の業務設計経験
要件定義の筋肉はあっても、「AIを前提に業務を組み替える」設計の実地経験は、AI利用が制限された環境では積めません。第2層の資産はあるのに、その最新版へのアップデートが止まっている状態です。
積みにくいもの2:モダンな開発・運用の経験
クラウドネイティブな構成、継続的なリリース、データ基盤。レガシー保守が主戦場だと、こうした経験の獲得機会が限られます。これは第1層の周辺で、履歴書の見た目以上に「新しい環境に移ったときの立ち上がり速度」に効いてきます。
積みにくいもの3:事業側の意思決定経験
受託の構造では、最終的な意思決定は常に顧客側にあります。予算をどう配分するか、どの業務から変えるか、やめる判断を誰がするか。この「事業のオーナーとして決める」経験は、発注側に回らない限り積みにくい資産です。
もう一つ、時間の性質にも触れておきます。第2層・第3層の資産は一度積めば急には錆びませんが、その資産を市場の文脈につなぐ「AI前提のアップデート」が止まった状態が長引くほど、翻訳の難易度は上がっていきます。つまり問題は「いま遅れていること」ではなく、「積めない状態を何年続けるか」です。
重要なのは、これを悲観の材料にしないことです。資産の棚卸しと、積みにくいものの認識は、地図上の現在地を確定させる作業です。現在地が分かれば、道筋は選べます。ここからは、その道筋を3つ提示します。
4. 道筋① 社内で「AIと業務の橋渡し」実績を作る
1つめは、いまの会社に留まったまま、制約の中で「AIと業務の橋渡し役」としての実績を作る道です。転職を急がない人にとっての本命であり、後述の道筋②・③に進む場合の助走にもなります。
制約があっても、できることは残っています。
- 担当業務・担当システムの業務フローを整理し、「どの工程がAIに任せられそうか」の適用仮説を提案資料にまとめる(ツールが使えなくても、業務の分解と設計はできます)
- 会社が許可した範囲での効率化 — 議事録整理、テスト観点の洗い出し、ドキュメントの下書きなど、認められたツール・範囲で小さく始める
- 社内勉強会の企画・登壇 — 顧客制約のない社内活動は、多くの会社で最も動かしやすい領域です
- セキュリティポリシーに沿った形でのPoC提案 — 顧客データを使わない範囲での試行を、上長や顧客に提案する
そして道筋①の成否を分けるのは、実行そのものより記録です。何の業務を対象に、何を設計し、工数や品質がどう変わったか(見込みでもよい)を、四半期ごとに言語化して残してください。形式は簡単で構いません。「対象業務」「課題」「自分が設計・提案したこと」「結果または見込み効果」「そこから学んだこと」の5項目をメモに残すだけで、後から採用市場の言葉に翻訳できる材料になります。社内で評価されなくても構いません。この記録は、数年後のあなたの職務経歴書で「制約環境下でAI活用を推進した実績」という、他の誰も持っていない一次資料になります。
向く人:いまの会社・案件に一定の裁量がある人。転職の緊急度が低く、まず資産を積みたい人。最初の一歩:担当業務の工程を書き出し、AI適用仮説を1枚にまとめて上長に見せる。注意点:会社や顧客の禁止事項を破って使う「隠れ利用」は絶対に避けてください。それは資産ではなく、信用を失う負債です。また、提案が通らない状態が1年以上続くなら、環境自体を変える判断(道筋②・③)に軸足を移すべきサインです。
5. 道筋② ドメイン知識 × AI で事業会社へ
2つめは、これまで担当してきた業界の事業会社——DX推進部門や情報システム部門——へ移る道です。
いま多くの事業会社がAI活用でつまずいているのは、技術の問題ではありません。「自社の業務が分かっていて、かつAIで何ができるかを語れる人」が社内にいないことです。ベンダーに丸投げすれば要件が曖昧なまま進み、現場に定着しない。だからこそ、業務が分かってAIを語れる人材を、発注側は探しています。長年その業界のシステムを作ってきたSIerエンジニアは、この要件にまっすぐ合致します。
しかも、受託で積みにくかった資産がこの道では逆転します。ベンダーとして管理されてきた経験は、発注側に回れば「ベンダーの提案を見抜き、適切に管理できる」能力として評価されます。そして事業会社では、道筋①で積みにくかった「事業側の意思決定」の経験が業務そのものになります。第3層の資産が積める環境に、掛け算の片側(ドメイン知識)を持ったまま移れるのが、この道筋の本質です。
向く人:特定業界の案件を長く担当し、業務フローを顧客側の言葉で語れる人。開発の手を動かすことより、業務を良くすることに関心が向く人。最初の一歩:担当してきた業界の業務課題を10個書き出し、それぞれ「AIでどう変わり得るか」の仮説を添える。そのうえで、その業界の事業会社のDX・情シス求人票を10件読み、求められている言葉と自分の資産の重なりを確認する。注意点:事業会社の情シス・DX部門は少人数で守備範囲が広く、「最新技術の開発がしたい」人には物足りない場合があります。また企業規模によっては提示年収が現職を下回ることもあるため、目先の年収ではなく「第2層・第3層が積める環境か」で判断してください。
6. 道筋③ PM経験を武器に「AI前提プロジェクトの推進役」へ
3つめは、PM経験を武器に、AI導入・活用プロジェクトの推進役(社内外のPM・PMO・推進リーダー)へ進む道です。
AI導入プロジェクトは、従来のシステム開発以上に「プロジェクトとして難しい」性質を持っています。出力が確率的で要件を固め切れない。効果の見込みが動くため、関係者の期待値管理が難しい。ツール選定・ベンダー管理の判断材料が揃わない。そして作って終わりではなく、現場に定着させる設計が要る。——お気づきの通り、これらは曖昧な要件を扱い、リスクを管理し、関係者を合意に導いてきたSIerのPMが、ずっと戦ってきた課題そのものです。AIの技術詳細に詳しい人材より、この「推進の型」を持つ人材のほうが不足しているのが実情です。
向く人:要件定義からリリース・定着までを回した経験があり、顧客折衝・ベンダー管理に自信がある人。最初の一歩:過去のPM経験を「曖昧さをどう固めたか」「関係者の対立をどう合意させたか」「品質とリスクをどう管理したか」の3つの観点で棚卸しし、AI導入プロジェクトの課題に対応づけて言語化する。注意点:AIの技術者になる必要はありませんが、第1層(自分でAIを日常的に使う経験)が空のままだと説得力が出ません。個人利用でよいので、生成AIを使い込んで肌感覚を持っておくことが前提条件です。
3つの道筋の比較
| 道筋 | 向く人 | 活きる資産 | 最初の一歩 |
|---|---|---|---|
| ① 社内で橋渡し実績を作る | 現職に一定の裁量があり、まず資産を積みたい人 | 業務理解、要件定義、社内の信頼関係 | 担当業務のAI適用仮説を1枚にまとめ、上長に提案する |
| ② ドメイン知識 × AI で事業会社へ | 特定業界を長く担当し、業務側に関心が向く人 | ドメイン知識、要件定義、ベンダー管理の裏返し | 担当業界の業務課題10個とAI適用仮説を書き、求人票10件と照合する |
| ③ AI前提プロジェクトの推進役へ | PM・PMOとして推進の型を持っている人 | PM経験、品質管理、折衝・合意形成 | PM経験を3観点で棚卸しし、AI導入の課題に対応づける |
どの道筋を選ぶか — 「どの資産が厚いか」で決める
道筋選びで、年齢・家庭状況・リスク許容度を最初の判断軸にする方が多いのですが、順番が違います。それらは実行のペースを決める変数であって、方向を決める変数ではありません。方向は、自分のどの資産が厚いかで決めてください。業界の業務知識が一番厚いなら道筋②、推進の型が一番厚いなら道筋③、まだ棚卸しが済んでいないなら、まず道筋①で実績と記録を作りながら見極める。3つは排他的ではなく、道筋①はいつでも②・③の助走になります。
逆に避けたいのは、資産の厚みを無視した方向選びです。たとえば業務知識が武器なのに「不安だから」という理由だけで未経験のAIエンジニア職を目指すのは、せっかくの掛け算の片側を自分から手放す選択になります。市場価値は掛け算で決まる以上、厚い因数を活かす方向が、最短で値の上がる方向です。
SIerでの経験は、AI時代に無価値になるどころか、掛け算の土台として十分な厚みを持っています。足りないのは資産そのものではなく、資産の棚卸しと、市場の言葉への翻訳と、それが複利で増える環境の選択です。この3つは独力では客観視しにくい作業でもあるので、無料の職務経歴書AIやキャリアエージェントといった外部の目も、遠慮なく使ってください。現在地さえ確定すれば、道筋は選べます。この記事が、その最初の棚卸しのきっかけになれば幸いです。